人気ブログランキング | 話題のタグを見る

大雪の日に

大雪の日に_e0273524_21275096.jpg


大雪の日。
私は高校時代の同級生の告別式に出る為、
信州北部の我家から群馬県高崎市に車で向かった。

国道は除雪が間に合わず、
大渋滞になっていた。
それも長野県から群馬県に入ると更にひどくなり、
全くお手上げ状態に見えた。
高速は通行止だ。

所々にスリップして動けなくなった車やトラックが止まっていた。
私は普段の倍近い時間を掛けて、
10分遅れで式場に着いた。



最初に友人の死を知らされた時、
即座にいつもの悪い冗談だと思った。
しかし告別式の日が近づくにつれ、
それが疑問に変わり、
そして怖れに変わって行った。

告別式の会場に着いた時、
確かにそこには友人の家の名前があった。
中に入ると大きな祭壇に友人の写真が掲げられていた。
改めて愕然とした。
こんな事があるのか。



かつて私の父は私の目の前で倒れてそのまま逝った。
私は亡霊でもいいから父に会いたくて、
暗い部屋で暗い夜道で父に向かって話し掛けた。
しかしついぞ超常現象は起きなかった。

父の死から2年くらいして、
私は夢の中でいつもの様に実家に電話をしていた。
電話には父が出た。
「変わりないかい?」と私。
「変わりないよ」と父。
私は「たまには高崎の街に出て飲まないかい?」と父に提案した。
「ウン、そうすっべえ」と父は言った。
私は目を覚まし、
今夜はオヤジと外で一杯やるんだととてもウキウキしていた。
そして愕然とした。
父はもう2年前に亡くなっていたのだ。





芭蕉の『野ざらし紀行』にはこんな句がある。

”梅恋て 卯の花拝む なみだかな”

高徳の和尚を慕って詠んだ句だ。
梅の花の頃に亡くなったと言うのに、
訪ねて来た時には卯の花の季節になっていたと。

また『奧の細道』には、
会うのを楽しみにしていた弟子を訪ねると既に亡く、
墓参りの後の追善の句会で、

”塚も動け 我泣声は 秋の風”

と詠んだとある。
激しい句だが、
痛い程気持は分かる。



良寛にも師や友人の死を嘆く詩が沢山ある。


再到田面庵

去年三月江上路
行看桃花到君家
今日再来君不見
桃花依旧正如霞


再び田面庵に来た

去年の三月に川沿いの路を
桃の花を見ながら君の家に来た
今日また来てみたがもう君はいない
ただ桃の花が同じ様に咲いているだけだ


その良寛の最後はどうだったか。
良寛臨終の時、
貞心尼は良寛の枕元でこう詠んだ。

”生き死にの 堺はなれて 住む身にも
避らぬ別れの あるぞかなしき”

生死(しょうじ)を超える事が仏道の修行である。
それは十分分かっている。
しかしそれでも貴方が逝ってしまうのは悲しいと。
それに対し良寛は、

”うらをみせ おもてをみせて 散るもみじ”

と答えたと言う。
この句は実は良寛の句ではない。
もうそんな事はどうでもよかったのだろう。
良寛はこんな句も詠んでいる。

”散る桜 残る桜も 散る桜”

残る桜もやがて散る。
残る桜の生き方が問われている。





友人はしっかりとした仕事を持ち、
奥さんと子供さん二人を養いながら、
全く独自の絵をこつこつと弛まず描いていた。
告別式の会場には残された沢山の絵が飾られ、
「絵画展」の看板も出されていた。

その中に今まで見た事のなかったスケッチがあった。
それはとても透明で迷いが無く、
純度の高いものだった。
彼はこんな絵も描いていたのか。
逝くには余りに早かった。

彼は単身赴任先の地にある美術館の駐車場で急死したという。
何という事だろう。
余りに痛ましい。
ご家族の無念は計り知れない。
これは神様に召されたと思うしかない。
今はただ冥福を祈る事しか出来ない。



私は式が終わると実家に立ち寄り、
少し休んでまた帰路に着いた。
渋滞は更に激しさを増していた。
この渋滞では除雪のしようがない。
路面状態は更に悪くなっており、
あちこちで車が立ち往生していた。
高速も依然通行止のままだ。

しかし長野県側に入ってしまえば、
きっと渋滞も除雪も良くなっているだろう。
このくらいの雪なら長野では決して珍しくはない。

しかし予想に反し、
軽井沢に入っても渋滞は止まず、
路面はひどい状態のままだった。
このままでは今日中に家まで辿り着けない。
私は少しでも前に進む為に、
脇道を探しては悪路を進んだ。

しかし私は幸運だったと言うしかない。
あと三十分遅ければ碓氷峠は通行止になり、
復旧に数日を要したからだ。
友人が守ってくれたか。



大雪の悪路をのろのろと進みながら、
亡くなった友人の事を思い出していた。
私は今まで生活と創作の両立ばかりを考えて来た。
しかし良い作品が創れなければ他は何も成り立たないのである。
良い作品を創る事が全てなのだ。
彼がそれを教えてくれたのだろう。

我家に続く県道に入った時、
やっと渋滞は解消し除雪もいつも通りに行われていた。
私は辛うじて日付が変わる前に家に着いた。
これで数時間の睡眠は確保出来る。
明日はまた早朝からアルバイトに行く。





病起

一身寥寥酖枕衾
夢魂幾回逐勝遊
今朝病起江上立
無限桃花逐水流


病より起きる

侘しいこの身は病気で寝込み
夢の中で何度も旅をした
今朝病から起きて川の縁に立てば
数限りない桃の花びらが水面を覆って流れていた



この良寛の詩は先に挙げた詩、
「再到田面庵」に対応している様に思えるが、
対応していなくても構わない。
病に寝込んでしまった良寛は、
回復後に一面に桃の花びらを散らして流れる川面を見て、
自分自身に起きた変化を悟る。
それが良寛の答えなのだろう。

まるで無限に続く流れの様に、
桃の花びらが水面を覆って流れて行く。
その花びらの一枚一枚が、
私達一人一人の命なのかも知れない。
川の流れに流されて行く無数の命。
だからこそ、
大切なものを見つめていなければならない。














by farnorthernforest | 2014-02-09 23:27 | 日々の事

制作や旅や登山についてなど。


by 山下康一