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セドナ・ワシントンDCの旅 10

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さてこの記事もいたずらに長くなったので、
今回で終わりにしたいと思う。
今回はナショナル・ギャラリーで感じた事、
そしてある小さな出会いについて書いてみたいと思う。







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海外の美術館での体験は、
思い出も含めて今までたくさん書いてきた。
絵で立とうと決心した時、
私は海外の美術館で世界の傑作を直接この眼で見たいと思った。
日本ではどうしても分からない事があったからだ。

その分からない事というのは「日本の芸術」についてだ。
どうして「型」通りに描かなければならないのか。
どうして人と大きく違ってはいけないのか。
これに対する私自身の答えは、
前回の旅の記事『アリゾナ・ニューメキシコの旅』に詳しく書いた。

今にして思えば出会った人達がたまたまみんなそういう人達だった、
と言ってしまえばそれまでの事だ。
しかしそういう人達に私が出会ったのも何か必然があったのだろう。
今は全て感謝している。





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美術館を観る時には、
以前だととにかく全ての絵に時間をかけた。
全ての絵から何かを学ぼうと思っていた。
勿論好きな絵には1時間2時間あるいはそれ以上の時間をかけた。

それが段々と自分の興味のあるもの中心になり、
今回は興味の無い絵はどんなに有名でも素通りだった。
そしてその理由も今回はっきりした。
多くの絵は感情が未消化で観ていてとても辛いのだ。
どんなに有名でも、
どれ程素晴らしい技術の絵でも、
そして歴史的価値があるにしても、
私には辛くて観続ける事は出来なかった。

若い頃は誰しも押さえきれない感情の爆発に苦しんだと思う。
そしてそれに振り回され苦しみながらも惹かれるという、
不思議な時代だったと思う。
当然嗜好もそれに合ったものになる。
人は同じ波長・エネルギーのものに惹かれるからだ。

これは絵だけに限らない。
例えばニュースや噂話などもそうだ。
心がそれらを欲するのだ。
心はそれらを食べて巨大化し、
そして制御不能に陥る。

しかしいつかはそれを脱しなければならない時が来る。
脱する方法は色々あるだろう。
自分が感じているものが自分ではないと分かれば、
人は自然にそこから離れる。





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今回印象深かったのは中世の宗教画だ。
今からすれば絵が写真の代わりだった時代、
画家には特別な使命感があったのかも知れない。
後に写真が発明されて絵は報告性から解放される。
しかしそこにはある種の罠があったと感じている。

ただ感情を爆発させるだけの絵なら、
ヤケ酒と大して変わらない。
またどれほど世の不条理を暴いてみても、
そこに根源の解決は無い。

中世の宗教画は現在の絵画理論からしたら、
「おかしな・稚拙な」ものばかりに見えるかも知れない。
しかし未消化の感情では表せない何かを宿していると感じる。
今はそういうものに惹かれる。





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これは日本人に大人気のフェルメールの絵だ。
今回この絵を観ていて思う事があった。
なぜこの人の絵は平安なのだろう。
勿論違う絵もあるが、
この絵に関しては観ていてある発見があった。
学者や評論家が何を言っているのか知らないが、
今は私が感じた事で十分だ。





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平安の中に佇む女性の背景には、
キリスト教の最後の審判の絵が描かれている。





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手には天秤を持っている。
何か宝飾品の様なものも描かれている。
しかし天秤には何も載っていない。
天秤は比較判断の象徴だ。
これは明確なメッセージだ。


不生不滅、不垢不浄、不増不減


般若心経の一節だが、
この絵はこの浄福を表現しているのだと思う。
生ぜず滅せず増えもせず減りもせず、
美も醜も良いも悪いもない。
これ以上の平安は無いだろう。





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さて今回最も惹かれたのはセザンヌのこの絵。
「"At the Water's Edge" oil on canvas, c. 1890」とある。
ナショナル・ギャラリーに3回行き、
3回とも1時間以上この絵を眺めていた。
構造的・構築的・多重的、
巨大で峻厳な世界をこの絵の奧に見る。
特にこの余白・塗り残しは驚きとしか言い様が無い。

しかし今の私にはこの絵についてこれ以上語る言葉を持たない。
例えば夜空の暗く小さな星に視線を向けた途端、
それが見えなくなってしまうように、
この絵も観れば観るほど見えなくなってしまう。

それは眼の中心部の視細胞が弱い光に反応しない様に、
認識も意識を一つの事に仕向けると、
表面しか見えなくなってしまうのに似ている。
本当に大切な事は意識の外で認識するのだろう。
この絵について語るにはまだ時間が必要だ。

この絵についてもっと知りたいと思い、
ミュージアム・ショップでセザンヌの画集や絵葉書を探したが、
この絵はどこにも見当たらなかった。
今まで余り研究対象にはならなかったのかも知れない。

しかし私はこれからの画業の道筋を、
この絵の先に感じた。
この絵を観ながら、
「神の国は見える形では現れない」
「説以一物則不中(一物をもって説くもすなわちあたらず)」
という言葉を思い出していた。





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さて最後の一日もナショナル・ギャラリーで過したが、
宿に帰る途中での事。
いつも買物をする地下鉄の駅に隣接する商店街に、
小さな額屋があった。
飾ってある山の絵が気になっていたのだが、
この日は思い切って中に入ってみた。

中から現れたのは灰色の髪を腰近くまで垂らした、
アジア系の女性店主だった。
聞くと韓国系アメリカ人だそうだ。
私は旅行者で絵を描くと自己紹介し、
私の絵葉書を渡して話を始めた。

飾ってある絵はほとんどがこの方の描いたものだった。
山の絵だと思っていたものはご本人曰く全て抽象画で、
ただイメージのままに描いたそうだ。

この方とアートについて色々と話をした。
DCのアート事情やアーティスト達の生活について、
私も色々と質問をした。
画家として生きる事は世界中どこでも同じ問題を抱えている。

「アーティストはみんな大っ嫌い」
「どいつもこいつもみんなアーティストになりたがって」
「私はアーティストに生まれてしまったからアートをするしかないの」
「収入は少ないけどずっと絵と額屋を続けられてラッキーだった」
「私も独学よ」
「最初は2色で描き始めて後から少し色を足すの。カラフルなのは嫌い」

こんな言葉が印象に残った。
横山操の、

「画家というのは、
画家だから絵を描くのであって、
絵を描くから画家なのではない」

という言葉を思い出していた。





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商店街を出て宿に帰る途中、
交差点で黒人の大男の警察官に呼び止められた。

Hey! Everything OK ? (オイ、大丈夫か?)
Sorry ? (えっ、なんですか?)
How are you ? (調子はどうだ?)
Ah, I'm very good, thank you. (ええ、大変良いです。ありがとう)
Good! Good! Take care! (それは良かった。気を付けてな)

どんな顔をして歩いていたのだろうか。





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帰国の日。
チェックイン・カウンターでは年配の係員が、
パスポートの写真と私の顔を見比べながら、
「ウーン、これは同一人物かぁ?」
「若く見えるでしょう」
「分かった。昨日撮ったんだろ?」
そんな冗談を言いながら不思議な説明をした。
搭乗口で改めてチケットをもらえと言うのだ。

そしてその理由はすぐに分かった。
飛行機が遅れていて出発のメドが立たないのだ。
前回の旅では乗り継ぎが間に合わず帰国が一日遅れた。
今回もまた一日延びるのだろうか。

しかし搭乗口で別の便に振り替えられ、
予定より1時間遅れてワシントンDCを離陸。
乗り継ぎのアトランタでは巨大なターミナル内を走りに走って、
既に搭乗が終わり係員しかいない搭乗口に駆け込んだ。
間に合った。
機内は成田行きだというのに中国語と英語ばかりが聞こえていた。





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自宅のある長野に戻り、
先ず確認したかったのは山岡鉄舟の言葉だ。
私にはどんな画論や技法よりもこういう言葉が心に沁みる。
全文を記してこの旅行記を終りにする。





無刀流と称する説

剣法者、
鍛錬刻苦して無敵に至りたるを以て至極とす。
優劣ある時は無敵にあらず。
是れ皆心のなす所にして、
優者に向ふ時は心止り、
太刀控へて運ばず。
心に敵を求め、
自ら心を止め、
太刀控へて運ばざるなり。
劣者に向ふ時は心伸び、
太刀自在をなす。
心に自在と思ふ所よりなるものなり。
是れ心外に一切ものなき証拠なり。
修業者数十年苦行をなし、
唯身体の働きと太刀の運びばかりを見るは非なり。
予が発明する所を無刀流と称するは、
心外に刀なきを無刀といふ。
無刀とは無心と言ふが如し。
無心とは心をとどめずと言ふ事なり。
心をとどむれば敵あり。
心をとどめざれば敵なし。
所謂孟軻子の浩然の気天地の間に塞つといふは、
即ち無敵の至極なり。
昼夜工夫を凝して怠らざる時は、
一旦豁然として無敵の地を発明せん。
必ず疑を容れず刻苦修行あるべし。









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by farnorthernforest | 2015-05-02 21:28 | 旅の事

制作や旅や登山についてなど。


by 山下康一