古典
2017年 01月 03日
今まで冬の間はスキー場で働いていましたので、
長年年末年始らしい事をせずに過ごして来ました。
しかしこの冬は絵に専念する事にしましたので、
日本の年末年始を満喫しています。
正月『臨済録』が読みたくなり本棚から引っ張り出してきました。
昔中国に実在した臨済義玄( ? - 867 )の言動を記録した本です。
とてもダイナミックで面白く二十代からの愛読書です。
三十代では何度も一緒に海外美術館行脚に行きました。
そして五十代の今でも読む度に新鮮です。
それが古典の素晴らしさです。
栞の挟んである項を開いてみると、
今日はこんな言葉が目に入って来ました。
師、衆に示して云く、
道流、仏法は用功の処無し、ただ是れ平常無事。
あ屎送尿、著衣喫飯、つかれ来たれば即ち臥す。
愚人は我れを笑うも、智は乃ちこれを知る。
古人云く、外に向って工夫を作すは、総て是れ痴頑の漢なり、と。
なんじしばらく随処に主と作れば、立処皆な真なり。
境来たるも回換すること得ず。
縦い従来の習気、五無間の業有るも、自ら解脱の大海と為る。
これは今風に言えば「今ここに在れ」という事です。
”平常無事”は「日日是好日」「無事是貴人」と同じ意味です。
しかしそれは毎日平和で楽しい日が続くと言う意味ではありません。
良し悪しではないのです。
本当に必要な事は全て自分の中にありますが、
人間はついついそれを忘れてしまいます。
だから時々思い出させてくれる人や本などが必要です。
忘れなくなるまで何度でも思い出さなくてはなりません。
素晴らしい古典が今の世に伝わっている事は幸いです。
古典は一度でも途切れればそこで終わりだからです。
古いものが劣っていると考えるのは現代の妄想です。
学問は積み上げられても個人はゼロから始まるからです。
by farnorthernforest
| 2017-01-03 23:56
| 日々の事