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画歴・絵について・他







ご覧戴きまして誠に有難うございます。
作品につきましてはこちらもご覧戴ければ幸いです。






山下康一(やました こういち)
1965年 群馬県高崎生まれ
1987年 独学で絵画を始める
1989年 信州大学理学部卒(生態学専攻)
1990年 団体展公募展に入選入賞(2017年まで)
1992年 個展で発表を始める
1998年 ヨーロッパとアメリカの主要美術館を4ヶ月かけて巡る。
     (以後2007年まで毎年海外の美術館とギャラリーを巡る)
2010年 墨絵を始める
2017年 墨絵がドイツの美術史家に認められる
2018年 ドイツ・フランクフルトで個展
2019年 ドイツ・ダルムシュタットで個展
2020年 アメリカ・クレストンで個展準備完了後コロナで待機中





個展 (2021年3月現在)
日本:長野46回、北海道16回、東京15回、群馬9回、京都1回、
海外:ドイツ2回、アメリカ(コロナで開催待機中)
計89回
(昨今の日本の慣習に倣い喫茶店や公共施設等での個人展示も回数に数えています)



個展詳細

1992年 高崎駅ビルギャラリー

1994年 一番街画廊(高崎市)

1995年 高崎郵便局、大和屋ギャラリー(高崎市)

1996年 高崎郵便局

1997年 ジンジャーマン(大町市)

1998年 ゆ~ぷる木崎湖(大町市/2,3月)、高崎郵便局

2000年 ギャラリーいーずら(大町市)

2001年 ギャラリーいーずら(大町市)

2002年 アートギャラリー穂高(安曇野市)、ギャラリーいーずら(大町市)

2003年 北時計(富良野市)、札幌市資料館、札幌時計台ギャラリー

2004年 北時計(富良野市)、アルテピアッツァ美唄ギャラリー(美唄市/2,9月)、

     熊谷守一美術館ギャラリー(豊島区)、ギャラリー近江(銀座)、

     オリジナル画廊(札幌市)、ギャラリー像(新宿区)

2005年 ジンジャーマン(大町市)、ル・コパン(松本市)、熊谷守一美術館ギャラリー(豊島区)、

     イオンホール(安曇野市)

2006年 こまくさ(大町市)、ぎゃらりー創想の森(大町市)、ギャラリー近江(銀座)、

     熊谷守一美術館ギャラリー(豊島区)

2007年 ギャラリーいーずら(大町市)、ぎゃらりー創想の森(大町市)、

     いーずら大町特産館、平安堂長野店、ギャラリー像(新宿区)

2008年 ギャラリー宮川町(京都市)、ギャラリー近江(銀座)、

     アルテピアッツァ美唄ギャラリー(美唄市)、オリジナル画廊(札幌市)、

     高崎シティギャラリー

2009年 ゆいの家(高崎市)、熊谷守一美術館ギャラリー(豊島区)、ギャラリー像(新宿区)

2010年 アルテピアッツァ美唄ギャラリー(美唄市)、ギャラリー近江(銀座)

2011年 いーずら大町特産館、ジンジャーマン(大町市)

2012年 すずの音ホール(松川村)、アートカフェ清雅(安曇野市/4,6,7,12月)、

     くろよんロイヤルホテル(大町市)、イオンホール(安曇野市)、

     ギャラリー近江(銀座)

2013年 アートカフェ清雅(安曇野市/1,3,8,10月)、新さっぽろギャラリー(札幌市)、

     彩波画廊(銀座)

2014年 小川村郷土歴史館(2,5月)、アートカフェ清雅(安曇野市/2,12月)、

     黒い森美術館(北広島市)

2015年 砂澤ビッキ記念館ギャラリー(音威子府村)、ギャラリー粋ふよう(札幌市)、

     アートカフェ清雅(安曇野市)

2016年 かんてんぱぱ門前ギヤラリー(長野市)、ギャラリー鬼無里(長野市)

     彩波画廊(銀座)、イオンホール(安曇野市)

2017年 ギャラリー鬼無里(長野市)、井上百貨店(松本市)、カフェギャラリー縁縁、

     松本市美術館多目的ホール、熊谷守一美術館ギャラリー(豊島区)

2018年 ギャラリー鬼無里(長野市)、井上百貨店(松本市)、

     PRESENCE-kulturlounge(ドイツ・フランクフルト)

2019年 Lexus Form Darmstadt(ドイツ・ダルムシュタット)、高崎シティギャラリー、

     ギャラリー鬼無里(長野市)、北のアルプ美術館(斜里町)、

     ギャラリー粋ふよう(札幌市)、井上百貨店(松本市)

2020年 北のアルプ美術館(斜里町・2019年10月~2020年9月)

2021年 カフェ風のいろ




個展風景・作品紹介(外部サイト)
2008年札幌・北海道美術ネット別館



合同展示多数



出版物・印刷物
1994年 科学論『神話と現象の森』(輪読会)
2012年 画集『水彩で描く美しい日本 Vol.3・輝ける中部』
     (日貿出版社)に作品3点掲載
2013〜2017年 月刊誌『一枚の繪』に作品掲載(10回)
2015年 図録『2015北海道』(自主制作)
2017年 対談集『変わった道を歩みたいあなたに』
     (Kindle版、三澤洋史・角皆優人・山下康一共著)
     図録『山を描く』(自主制作)
     随筆集『絵と旅』(自主制作)
2019年 図録『山を描く・沈黙を描く』(自主制作)
     図録『Berge. Orte der Stille』(Marina Medina Art Consulting)
     図録『山を描く・沈黙を描く』(北のアルプ美術館)
     (有)いろは堂2020年カレンダー(作品13点掲載)
2020年 随筆集『今ここを旅する』(自主制作)



出版物・印刷物案内(外部サイト)
『水彩で描く美しい日本』日貿出版社



パブリック・コレクション

北のアルプ美術館(北海道斜里町)

黄檗宗大本山萬福寺塔頭宝蔵院(京都府宇治市)




お問い合わせはこちらからお願い致します。








「山、沈黙の場」

       美術史家 マリーナ・メディーナ


人類の山での体験には驚くべきものがあります。

何故ならそれによって多くの文化や宗教で、

神あるいは神々は山に住むと信じられているからです。

つまり山は宗教と霊性に深く関係があるのです。


ギリシャ神話では、

神ゼウスはクレタ島のイディ山で生まれ育ったと信じられています。

そして後にオリンポス山をその家とし、

ギリシャの神となりました。

私達の文化でも、

山は歴史上欠く事の出来ない役割を演じています。

何故なら多くの重要な出来事が山で起きたと、

ユダヤ教やキリスト教やイスラム教、

つまりエイブラハム系宗教の聖典で語られているからです。


モーゼは神ヤハウェとシナイ山で何度も会いました。

そしてそこで十戒を授かりました。

それは神と人との間の掟として定められ、

人と人との関係の在り方にもなりました。

ノアの箱船は大洪水によって四十日四十夜流されてアララト山に漂着し、

そこから新しい人類の歴史が始まりました。

キリスト教徒達はイエスが信徒達に聖なる姿を現したタボル山を、

神の変容の地と位置付けています。

コーランによれば、

ムハンマドはヒラー山で神からのお告げを受けました。


東洋の伝統的な宗教によると、

山は神、あるいは神々や精霊達の座、

あるいはそれ等の現れる場であると信じられています。

カイラス山は水晶に似た左右対象の独特な形から、

チベット仏教、ヒンズー教、ジャイナ教、ボン教の聖なる山とされています。

そしてこの宗教的重要性と尊厳から、

この山は未だに登られる事なく残されています。

そしてその信仰にすがる何千という巡礼者達が、

毎年このカイラス山の麓を回っています。

富士山、日本で最も高く、そして最も美しいこの山は、

神道において常に神の山として崇められています。

山麓や山腹にはおびただしい数の神社が建てられており、

様々な神々が祀られ祈りが捧げられています。


数多くのアーティストの中で、

山下康一のように山を霊性の場として表現し、

伝えている人は他にいません。

彼の作品は沈黙と静寂を周囲に放ち、

私達に全宇宙とのつながりを感じさせてくれます。

山下康一は日本の墨絵として知られる古い伝統的な絵画を専門としています。

日本では墨絵は禅仏教と密接に関係しています。

その本質は単純質素に還元する事であり、

極端なまでの完璧さを求めて注意が払われます。

元々この絵画技法は中国の禅僧によって用いられ、

後に日本での禅仏教の拡がりと共に、

それぞれの禅宗で集中的に用いられてきました。

そしてその本質還元の精神は、

日本の芸術に広く反映されています。


墨絵の技術を習得する為には、

途方も無い繊細さと気配りが必要になります。

何故なら墨絵は一筆一筆に失敗が許されないからです。

アーティスト山下康一のどの絵にも、

山の霊的背景が感じられるのは注目に値します。

そして彼の存在の特性が表れていて、

観る者に禅仏教の天地一体の感覚を完璧なまでに感じさせてくれます。


山下康一は禅仏教の本質である、

大いなる静謐の場としての自然を印象的に表現する、

偉大な墨絵マスターです。

この展覧会にお越しの皆様並びにこの画集をお読み下さった皆様が、

禅仏教の精神に触れて、

それを喜びと共に分かち合えます事を願っています。


Marina Medina Art Consulting 2019年 企画展

山下康一『Berge. Orte der Stille (山、沈黙の場) 』Lexus Forum Darmstadt,

図録『Berge. Orte der Stille (山、沈黙の場) 』解説文より (原文はドイツ語)








「極めれば迷わない、
  迷わなければ恐ろしくない」
       北のアルプ美術館館長 山崎猛
 
山下康一氏が描く水墨画の世界には、
不思議な力が秘められている。
人の心を動かす何かがある。
求めようとしている人だけに届く何かが…。
見ようと目を細めれば仄かに見え、
聞こうと耳を澄ませば微かに響き、
感じようと心穏やかにして時を待てば、
風に遊ぶ静謐な空間に包まれる…。

表現者であれば常に高みをめざして1から10へと登り詰めるが、
中には意を貫き0から1にと否定されつつも、
独創的な技法で歩み続けている表現者もいる。
その一人が山下康一氏だといえるであろう。

北のアルプ美術館 2019年 企画展 山下康一『山を描く・沈黙を描く 』
図録『山を描く・沈黙を描く 』より








ご挨拶 - 本当の癒しと自信のために -



はじめに、私の絵をご覧下さいました皆様、

そしてこのサイトをご覧下さっている皆様に、

心より感謝申し上げます。


2020年、

突然の新型コロナウイルスの出現で世界は一変しました。

生活が変わり、

私たちは今までの考え方を変えざるを得ませんでした。

そして今まで頭では理解していた地球は一つであるという事も身を以て体験し、

未来の地球と環境について真剣に考え始めたと思います。


以前の私たちは物もお金も、

そして娯楽も幸福も、

無限を前提としていた様に思います。

しかしそれはかくもはかなく無常であると、

このコロナ禍は教えてくれました。

本当の無限は自分の中にこそあります。

本当の自分が誰なのか、

そして本当の幸せは何なのか、

これからの時代はそれが今まで以上に重要になると思います。


私はこの世界を仮に二つの次元で考えています。

私たちが生きるこの現実世界と、

それが現れそして還って行く大元です。

それを言葉で説明するのは不可能なので、

仮に“沈黙”としておきます。

沈黙は私たちの側に常に在り、

そして私たちを実在たらしめています。

しかしその沈黙から切り離された時、

私たちは自分自身からの迷子になり、

社会は混乱し迷走を始めます。

現代の私たちは科学と経済の進歩に浮かれ、

この迷子と迷走の手前まで来ていた様に思います。


私が考えている沈黙は、

哲学や思想、

ましてや宗教と言うほど大げさなものではありません。

いつでも自分の側に在って、

自分を守ってくれているものです。

後戻りしない本当の癒しと自信はそこから来ます。

私はその沈黙への扉となる絵を描きたいと思っています。

私の絵がお役に立てれば幸です。






山と沈黙について



私の墨絵のモチーフの多くは山ですが、

そのコンセプトは沈黙の表現にあります。

ここで言う沈黙は言葉と言葉の間ではなく、

言葉の背後に常に在って、言葉が生まれて還る所、

言葉を意味付け実在たらしめているものの事です。

そして私はこの現実も私たち自身も、

同じようにこの沈黙によって意味付けられ、

実在付けられていると感じています。


世界の多くの宗教は山と深く関わりがあり、

そこでの沈黙は大変重要な意味を持ちます。

山と神聖、精神性と沈黙には大きな関係があるからです。

この山と沈黙をどう表現するか。

私は紙と墨を使い、山を塗り残して描きます。

漆黒の背景に浮かんだ山々は、近付いて見れば紙の地です。

この描かないで描き見ていて見えない虚と実の交錯の中に、

私は世界の様々な宗教や最先端の科学が説くこの現実の在り方、

例えば聖書やリグ・ヴェーダの「初めの時」や仏教の「色即是空、空即是色」、

あるいは量子力学が提示する宇宙モデルを見ています。


近代以降人は神の束縛から解放され、

以来欲望は公に正当化されてきました。

そして人は自然や様々な学問、理性でさえも欲望の実現に利用し、

その結果はご承知の通り、

地球環境の破壊と心の荒廃を招きました。

それは別の見方をすると、

人は言葉から言葉を作り出して沈黙とのつながりを失い、

喧騒の中に迷子になったとも言えると思います。

言葉(思考)の世界は相対的価値の世界です。

常に他と比較して止まず、

そのままではどこまでも喧騒(欲望と争い)の中に拡散してしまいます。


芸術の持つ役割の一つは、

そのコンセプトによって時代を反映または先取りし、

新しいパラダイムを提示する事だと思います。

これからの時代、

健全な地球と心の回復が今まで以上に重要になると思います。

そのためにはただ喧騒の中で消費される言葉ではなく、

沈黙と深くつながった言葉が必要だと考えます。

それは絵画も同じです。


絵はその部屋の雰囲気を変える力があります。

好きな絵を毎日眺める生活は、

心に一つの軸を作ります。

絵が持っているエネルギーは、

観る人の心と行動に大きな影響を与えると思います。

私の絵が皆様に選ばれ、

そして皆様のお役に立てる事を心より願っております。






これまでの歩み


私は群馬県に生まれ、幼少の時から自然が好きで、

里山で岩や木に登ったり川で泳いだりして遊びました。

長じて谷川連峰や北アルプスに登る様になり、

山を描きたくて二十二歳の時に独学で絵を始めました。


最初は油絵を描きましたが、

数枚描いてすぐに水彩画に転向しました。

油絵の持つ物質的で堅牢な感じが、私の描きたい世界、

この世界に感じている無常感と無限感とは違っていたからです。

それから水彩画を描いて来ましたが、

絵を始めて二十三年が経った四十五歳からは、

墨でも描く様になりました。

水彩では表現しきれないものを感じていたからです。



水彩画では薄い透明な色層を重ねて無常感を描こうとしました。

仏教の五蘊仮和合をイメージしていたのです。

しかし無限感は摑み切れずにいました。

そして水彩に限界を感じ墨で描く様になったのですが、

墨は水彩と同じ様に描いては絵にならない事が解りました。

様々に試行錯誤する中で、次々と発見がありました。

山は実在から象徴に変わり、

ぼかしの多用は絵の中に自然現象を呼び込み、

雪や雲や霧などの塗り残して描かない部分は、

描かない故の大きな意味を持つ様になりました。

人生は生きない事で本当に生きられるからです。

そして黒く塗り潰した背景に、

私は言葉や思考や或いは現実と呼ばれるこの世界の、

移ろい行く全てのものが生まれては帰る場所、

時間を超越した沈黙と静寂を見たのです。

それは無常と無限の在り様を体験した瞬間でもありました。


今の私にとって大切なのは、

絵を描く事よりもまずこの沈黙と静寂につながる事です。

絵はそこから生まれます。

墨で描く様になってからは、

私は絵の中に自分自身を認めなくなりました。

私は絵を描くのではなく、

絵が出来る場の目撃者だからです。

私はただ観る人を映す鏡の様な絵を描ければ良いと思っています。

絵の中に自分が無くなれば無くなる程、

鏡は澄んで観る人をそのままに映します。


2018年 Kulturlounge PRESENCE Frankfurt am Main 個展挨拶文(英文掲示)

2019年 図録『山を描く・沈黙を描く 』挨拶文






何をどう学ぶか



私は独学で絵を始めました。

はじめは画集を見て技法書を読み美術館に通って勉強し、

後に絵画団体の公募展に出品するようになりました。


絵画団体では有名な先生方先輩方に絵とは何か芸術とは何か、

どう描くべきかどう描いてはいけないかをご指導を戴きました。

しかし私にはその理由がどうしても解らず、

長く悶々としていました。

私の描きたい絵とは違っていたからです。

そこで思い切って定職を辞し、

海外の美術館で世界の傑作を直接観る事にしました。

初めての海外旅行はヨーロッパとアメリカの主要美術館をほとんど周る

丸四ヶ月の旅になり、

毎日開館から閉館まで目から血が出る程絵を観続けました。

そして解ったのは日本で言われている絵の王道は、

ある程度の絵を安全安心に描くための過去の傑作の最大公約数だという事です。

一方海外では個々人の感性を徹底的に突き詰め、

唯一無二に昇華させた作品だけが評価されるのでした。


帰国後私は独自の方法を模索し始めました。

参考にしたのは仏教、特に禅の世界や、

それに影響を受けた武芸文芸の世界でした。


大道無門 千差有路  大道に門無く 千差の路有り

透得此関 乾坤独歩  此の関を透得せば 乾坤に独歩せん(『無門関』)


発表した作品は、

地元でそして銀座で酷評されました。

曰く、正統でない、本流でない、伝統的でない、描き方が間違っている等々。

しかし私にとって大切なのは、

伝統を受け継ぐ事でも人と同じで安心する事でもなく、

絵を通して自分を、

そしてこの世界を知る事でした。


従門入者不是家珍  門より入る者は是れ家珍にあらず

従縁得者終始成壊  縁に従って得る者は終始成壊す(『無門関』)


決まった型は初心者のお手本にはなっても、

その人の個性にはなりません。

才能も環境も名声も富も絶対的なものには成り得ず、

やがて泡の如く消え去ります。

それらどれでもないものを摑めと古人は言います。


随処作主 立処皆真  随処に主と作れば、立つ処皆真なり(『臨済録』)


どこへ行ってもどこにも行かない。

どんな状況も最良のものにする。

立処皆真。

日日是好日。

私にとって絵はそれを学ぶための道でした。


2018年 Kulturlounge PRESENCE Frankfurt am Main 個展解説文(英文掲示)






道としての絵画



画家村上華岳は『製作は密室の祈り』の中にこう書いています。

「実は私は絵なんかどうだっていゝ、

描けなくてもかまはないと考へます。

若し世界の本体を摑むことさへ出来ればそれが一番大切なことです。

(略) 私が仏像を描いてゐるのは、

そこへ到達する修行に過ぎません。」


絵を通して世界の本体を摑みたいと村上華岳は言いました。

同じ事を幕末明治の剣術家山岡鉄舟も『修心要領』の中に書いています。

「余の剣法を学ぶは偏に心胆練磨の術を積み

心を明めて以て己れ亦天地と同根一体の理、

果して釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。」


絵で、剣で、世界を知る。

松尾芭蕉は『笈の小文』でこう語ります。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、

雪舟の絵における、利休の茶における、

其貫道する物は一なり。」


どんな事でもその人の心の在り方一つで世界を見つめる道となる、

その心の在り方の秘密を白隠禅師は『坐禅和讃』の中でこう語ります。

「夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり。

布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、

其品多き諸善行、皆この中に帰するなり。」


摩訶衍(大乗)の禅定の力が様々な行為を道に高める。

道元禅師は『正法眼蔵』の現成公案の巻で

その方法と過程をこう説明しています。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。

自己をならふといふは、自己をわするゝなり。

自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。

万法に証せらるゝといふは、自己の心身、

および他己の心身をして脱落せしむるなり。」


私はこの「仏道」を絵に置き換えて考えます。

絵を学ぶ事は自分を学ぶ事、自分を忘れる事、万法に証せられ脱落する事。

そこには自分と言うものは何もなく、

解釈に汚されない事実だけがあります。

私はその目撃者です。


弓術家阿波研造は「百発百中は凡射なり、百発成功は聖射なり」と言いました。

絵をどれ程巧く綺麗に描いても、

それは凡射に過ぎません。

聖射は天地と同根一体である事、

一筆一筆に絵が完成し、

一呼吸一呼吸に自分が完成している事です。

その時大道無門、立処皆真は現成します。

私にとって絵を描く事は、

そこに到るための方法なのです。


2018年 Kulturlounge PRESENCE Frankfurt am Main 個展解説文(英文掲示)






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by farnorthernforest | 2012-04-18 04:18 | 画歴/ARTIST STATEMENT