密室の祈り
2015年 11月 19日
村上華岳の文に『製(制)作は密室の祈り』というものがある。
1920年、時に華岳32歳。
実は私は絵なんかどうだっていゝ、
描けなくてもかまはないと考へます。
若し世界の本体を摑むことさへ出来れば、
それが一番大切なことです。
それがしっかり自分のものとなったなら
絵が描けなくても詩が作れなくてもいゝ、
その人はそれで生命の目的を果し、
生活の意味を実現し、
そして大きな宇宙の意志と一つに融合することが出来たのですから。
私が仏像を描いてゐるのは、
そこへ到達する修行に過ぎません。
同じ年の別の文には、
人間が生きている目的は何にあるか
私は未だはっきり言うことは出来ませんが
一番大切なことは世界の本体を掴み
宇宙の真諦に達することにあると信じます。
ですから私が絵を描くのも
その本体を掴む道の修行に過ぎません。
画室で製(制)作するのは
丁度密教で密室に於いて秘法を修し
加持護念するのと同じ事だと思っています。
東山魁夷も「祈り」という言葉をよく使っていたが、
『風景との対話』という本の中には師・結城素明について書かれた文があり、
その中に師から言われたという言葉を記している。
「スケッチブックを持って、
どこか写生に行くんだね。
心を鏡のようにして自然を見ておいで」
私はこの二つの言葉「祈り」と「鏡のように」に同じ意味を見る。
同じ場所を違う方向から指し示す矢印だと思うのである。
人が自然を見たり聞いたりして感じている時、
そこには感じている今と感じている空間しかない。
しかし実際には同じ時間と空間の中に、
自我が創り出す様々な思考と感情が混在している。
それが心というものだ。
しかしそこから思考と感情を巧く濾し取った時、
自分は”自我の自分”ではなくなり自然とつながる。
その濾過する過程が「祈り」であり「鏡のように」であり、
今流の言葉で言えば「瞑想」とも言えると思う。
絵を描く事をこう捉えるのは少々突飛に聞こえるかもしれない。
しかし日常における全ての行為はこの”濾過”のための手段になる。
「剣禅一如」や「茶禅一如」という言葉があるが、
「日日是好日」は生活の全てを修行にする姿の事だ。
自我を濾過し自然とつながるとどうなるのか。
中川一政はこんな言葉で語っている。
私は木偶である
私は修羅場もやる
濡れ場もやる
しかし私は非力で
何ひとつ出来ることはない
私は遣い手に遣われているのだ
私のかげに遣い手の目が光っている
私はただの木偶である
楽屋をごらんなさい
私はただつるさがっている木偶である
(中川一政の詩)
自分の思考や感情がなくなってしまえば、
自分はどうなるのかと恐れるかもしれない。
しかし自分というのはそんなに小さなものではなく、
思考や感情も含め遥か大きく広がっている。
「個性の時代」と言われ久しいが、
個性は型ではなく在り方だ。
今一般に言われている個性という言葉が指し示すものは、
ほとんどが自我が作り出した幻に感じる。
オンリーワンとか等身大とか自然体とかプラス思考といった言葉がある。
こういった耳に心地良い言葉は、
自分の中の小さな自我を一時的に喜ばせるだけで、
本質的には何も変えはしない。
無門慧開(1183〜1260)編纂による『無門関』の自序にはこうある。
従門入者不是家珍 門より入る者は是れ家珍にあらず
従縁得者終始成壊 縁に従って得る者は終始成壊す
型として得るものは自分の宝にはならず、
縁に従って得るものは常に縁に従って消える。
そのどちらでもないものを掴めと言う。
そして頌にはこうある。
大道無門 大道に門無く
千差有路 千差の路有り
透得此関 此の関を透得せば
乾坤独歩 乾坤に独歩せん
再び中川一政の言葉である。
見える境地は自由自在である。
光ゆくものの如く、
延びゆくものの如く。
楽しいと思って絵をかく人は平行する。
表面ばかり撫でていなければならない。
苦しんでかく時は反撥する。
無理な力であるからである。
みえる境地にいるとき、
拙い一筆触、
一色彩の間にも神の恩寵がひそむ。
力と光はそこから発する。
(中川一政『写生道』より)
「此の関を透得せば乾坤に独歩せん」とは、
正にこういう世界を言うのだろう。
ブログ『絵と旅』の2017年までの主要記事を一冊にまとめました。
詳しくは 山下康一公式ウェブサイト をご覧下さい。
by farnorthernforest
| 2015-11-19 20:24
| 絵の事について