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無為而尊




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最近「無為而尊」という言葉をよく思い出します。
これは荘子の中に出て来る言葉です。



何をか道と謂う。
天道有り、人道有り。
無為にして尊き者は、天道なり。
有為にして累(わずら)う者は、人道なり。



無為にして尊し。
何もしないのに何故尊いのか。
それについて、
遡って老子にはこうあります。



為す者はこれを敗り、執する者はこれを失う。
是を以て聖人は、
為すこと無し、故に敗るること無し。
執すること無し、故に失うこと無し。



為すというのはつまり意図する事ですが、
意図するというのは後の事です。
その前を行うのが無為の意味です。
何もしないという意味ではありません。

意図しないというのは、
例えばこんな言葉があります。



言(言葉)多く慮(考え)多し
うたた相応せず
言を絶し慮を絶す
通ぜざるところ無し
『信心銘』

生きながら 死人(しびと)となりて なり果てて
思ひのままに するわざぞよき
至道無難(1603〜1676)



人は何かをしていなければ自分の価値を見出せないものです。
しかし何かを為しその価値を自分で考えた瞬間、
それは後の事、相対の世界になります。
「無為にして尊し」とは感じられないでしょう。







『臨済録』に「無位の真人」という言葉があります。
その言葉が出て来る場面はこうです。



上堂。云く、
赤肉団上に一無位の真人有って、
常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は看よ看よ。
時に僧有り、出でて問う、
如何なるか是れ無位の真人。
師、禅牀を下って把住して云く、
道え道え。
其の僧擬議す。
師托開して、
無位の真人是れ什麼の乾屎橛ぞ、
と云って便ち方丈に帰る。

臨済は僧堂に入って言った。
「この体に無位の真人がいて、
常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。
まだ見た事のない者は、見よ!見よ!」
その時一人の弟子が進み出て質問した。
「その無位の真人とは一体誰ですか?」
臨済は台から駆け下りるなり弟子の胸ぐらを締め上げて言った。
「さあ、言え!、言え!」
弟子は呆然とするだけだった。
臨済はその弟子を突き放して、
無位の真人が何とカチカチの糞の棒か」
と言って自室に帰ってしまった。



顔から出入りしている無位の真人が、
全身に行き渡った時が「無為而尊」です。
そこには意図した行為がありませんから、
「為すこと無し、故に敗るること無し」
行わないのですから結果もなくその良し悪しもありません。
「執すること無し、故に失うこと無し」
持たないのですから失う事もありません。

人は自分で考え良かれと思い行動します。
しかし上手く行く事も行かない事もあるでしよう。
同時に無位の真人は常に顔から出入りしています。
彼は一体誰でしょうか。

無位の真人が全身に行き渡り自分と入れ替わると、
今の自分はどうなってしまうのでしょうか。
自分はどうにもなりません。
元々存在していないのですから。





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by farnorthernforest | 2019-01-23 12:52 | 日々の事について

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