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祈りの絵画/砂曼荼羅のように




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芸術は作者の主義主張を作品にするのが常ですが、
私はそれを望みません。
私は観る人の心を映す鏡の様な絵を描きたいと願っています。
もし鏡に最初から何かが映っていたら、
自分の顔はよく見えませんね。
鏡は澄んで何も映っていないからこそ、
見る人を正確に映します。
ですから私は私の絵から、
自分や自分の主張を抜き去ります。

今までに様々なご感想を戴きましたが、
その中でこんなご感想がありました。
「最初に見た時は絵が怒っていた、
何日も見つめていたらその怒りは消えた、
そして今では絵が微笑み掛けて来る」
これは私の絵に元々何かがあるのではなく、
その方の心が絵に映っていたのだと思います。



絵から自分を抜き去るとか鏡の様にとか、
恐らく何の事がご想像出来ないと思います。
具体的にどうするかと言いますと、
ここで一つの例えとして、
チベット仏教の砂曼荼羅をご想像戴きたいと思います。

砂曼荼羅は一週間から数週間の時間を掛け、
鼻息一つで飛んでしまう様な微細な色砂で、
細心の注意を払って描かれます。
もしその過程で何か自分の考えや思いや感情が頭に浮かび、
それに引きずられて自分がどこかに飛んでしまえば、
その瞬間に手元が狂って失敗します。
私の墨絵も紙に墨で細密に描いていますので、
間違えたら描き直す事は出来ません。
描いている間は全集中で自分を無くさなければなりません。



自分を無くすと言う事は、
よく言う「無になる」のとは違います。
これは一つの言い方でしかなく、
自分は絵を見ていますし、
常に何らかの音は聞こえて来ますし、
体は呼吸し手は動いています。

それらが無くなる事はありません。
意識が無くなる事もありません。
短時間飛ぶ様な事は起こっても、
何時間も何日も続くという事はありません。
それは他の器官も同じです。

そうではなくて、
元々自分など無いと知る事なのです。
「無になる」のは作為です。
作為する自分は何と小さいのかと知る事です。

例えば今まで繰り返し言葉を引用して来ましたが、
剣術の柳生但馬守や宮本武蔵や山岡鉄舟、
弓術の阿波研造、
画家の中川一政の言葉にもある様に、
無い自分が何者かに動かされて絵を描くのです。

動かされて絵を描くというのは、
絵が出来るのを目撃する事です。
それはこうしようああしようと考えるのではなく、
身に付いた技術や癖で描くのでもなく、
その時の一筆一筆に絵は完成しているという事です。



ドイツの美術史家はドイツでの個展で私の絵を、
「現代の宗教画」と解説しました。
宗教と言うと日本人は反射的に身構えますが、
どなたでも自然の中で気高く清らかな風景に出会ったら、
それを敬い祈る気持ちになると思います。
「現代の宗教画」と言えば何か理屈が勝りますが、
自然に祈る気持ちを呼び起こす絵という意味です。

産業革命以後自然は略奪の対象となり、
早い者勝ちで自然を破壊し続けました。
その背後には人間の神からの解放、
神という今まで人々を制限して来たたがが外れ、
科学も技術もそして理性までも、
欲望を叶える道具として利用して来た歴史があります。

その結果は現在の環境問題を引き起こしただけでなく、
人々の心の荒廃、
孤独感や無力感や生き甲斐の喪失などによって、
様々な心の病気をも引き起こしています。

今の地球環境の問題や人々の心の問題は、
人知を超えたものを敬い祈る心なくしては、
どれ程科学や技術が進歩発展し、
制度や法律が整えられても、
最後は結局欲望に引きずられ、
決して解決しないと思います。

人知を超えたものとは何でしょうか。
私は再び神を信じろと言うのではありません。
信者、無神論者、スピリチュアル、哲学、思想信条、
その他色々あると思いますが、
それらが問題なのではなく、
「本当の自分」が誰なのかを知る事なのです。
それを知れば、
奪いようがなく争いようがないのです。
(これについては拙著『今ここを旅する』に詳しく書きました)

私にとって絵を描く事は、
そこに接続する修行です。
そして出来上がった作品は、
絵の中に観て下さった方ご自身の心を見つけ、
対話し、
そしてその背後にある本当の自分の存在を感じて戴く、
そのよすがでありたいと願っています。



















by farnorthernforest | 2021-06-04 21:32 | 絵の事について